昭和の猟奇殺人事件、「阿部定事件」。
彼女のことは当時メディアにも大きく取り上げられたにも関わらず、とある時期を境に「サダさん」の行方はわからなくなり、今も行方不明のまま、墓のありかもわからない状況……。
そんなことを知ったのは、敬愛する村山由佳先生の『二人キリ』を読んでから、村山先生同様に私も彼女の魅力というか、なにかしらに惹かれていろんな文献を読み漁ったからかもしれません。
村山由佳先生の『二人キリ』は、阿部定事件を先生独自の視点から切り込む、比類なき評伝小説。この小説に、狂気を感じるのか、それとも「そこはかとない愛」を感じるのか……。
初出は2022年~2023年『小説すばる』連載。2024年1月、単行本化し、こちらを購入しました。
あらすじ
その女は愛する男を殺し、陰部を切り取り逃亡した――
脚本家の吉弥は、少年時代に昭和の猟奇殺人として知られる「阿部定事件」に遭遇。
以来、ゆえあって定の関係者を探し出し、証言を集め続けてきた。
定の幼なじみ、初めての男、遊郭に売った女衒、更生を促した学校長、被害者の妻、そして、事件から三十数年が経ち、小料理屋の女将となっていた阿部定自身……。
それぞれの証言が交錯する果てに、定の胸に宿る“真実”が溢れだす。
性愛の極致を、人間の業を、圧倒的な筆力で描き出す比類なき評伝小説。
作家デビュー三十周年記念大作!
Amazonより引用
阿部定事件の真相は、意外と闇に包まれている。
1936年に起きた阿部定事件は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。
女性が愛人男性を殺害し、その遺体の一部(陰部)を持ち去った――そんな衝撃的な内容が先走り、それらばかりが語り継がれていますが、実際のところ、この事件の「真相」は今もなおはっきりとはわかっていません。
なぜ彼女はそこまで至ったのか。
どんな感情が、どんな絶望が、彼女をあの行動へと突き動かしたのか。
それらは多くを語られることなく、ただ時代の中に埋もれていきました。
釈放された後の阿部定……「おサダさん」は、意外にも町に溶け込むように暮らしていたと言われています。特別な保護や隔離を受けることなく、静かに、しかし確かに社会の中で生きていたのです。
これまでにも、阿部定の狂気性や異常性をテーマにした本は数多く出版されてきました。
しかし、その多くが彼女の表面的な”異質さ”をなぞるにとどまり、
本当の心の奥底に触れようとしたものは、驚くほど少なかったように思います。
だからこそ、『二人キリ』は衝撃作だった
阿部定事件の真相は、今となっては誰にも知ることができません。
だからこそ、事件を描こうとするならば、ただ事実をなぞるだけでは到底たどり着けない、想像力と感受性が必要になる。
村山由佳先生の『二人キリ』は、その点において、他のどんな作品よりも際立っていました。
彼女は、事件の表面だけを追うのではなく、そこにいた”一人の人間”を見つめようとしたのです。
丹念な調査と、阿部定という存在への真摯な眼差し。
そして、想像力の翼を広げながらも、決して事実を軽んじることなく、真剣に「彼女の心」をすくい取ろうとしていました。
もちろん、「おサダさん」本人に問いかけることはできません。
それでも、村山先生の筆によって、この物語の中の「おサダさん」は、たしかに息をし、生きていました。
そんな言葉を言われてみたい。
「あたりまえだろ、本気で惚れた女だぞ。」
これは、『二人キリ』で被害者男性が発した言葉。
たった一言で、彼がどれほど強く、どれほど深く阿部定という女性を想っていたかが、胸に迫ってきます。
この言葉に触れたとき、私はふと思いました。
ここまで誰かに惚れさせることができる人間は、いったいどれくらいいるのだろう、と。
ただ愛されるだけではない、相手の理性をも超えて、魂ごと引き寄せるような恋。
それは、決して平凡な幸福とは言えないかもしれません。
しかし、それでも、そんなふうに愛された阿部定は、もしかしたらとても幸せだったのではないかと思わずにはいられない。
また、誰かを「殺したい」と思えるほどに、情熱を燃やし尽くすことのできる人生。
そんな激しい愛を体験できる人は、きっとこの世界でもほんの一握りなのでしょう。
私は、ほんの少しだけ、彼女のことをうらやましく思いました。
その生き方すべてを肯定することはできないとしても、彼女が抱えた愛情の激しさだけは、どこか眩しく映ったのです。
まとめ
『二人キリ』は、決して狂気の物語ではない。私は胸を張って、これは愛の物語だと断言したいと思います。
誰かを、こんなにも深く愛したことがあるだろうか。
誰かに、こんなにも深く愛されたことがあっただろうか。
阿部定という一人の女性が抱えた激しさも、それを受け止めた恋人の言葉も、そのすべてが、ただ狂気という言葉で片付けられるものではありませんでした。
むしろ、そこにあったのは、極限まで削ぎ落とされた、「一緒にいたい」というたったひとつの想いだったのだと思います。
だからこそ、村山由佳先生の『二人キリ』は、生々しく、生きていた。
恋愛小説の女王と呼ばれる村山由佳先生だからこそ、誰も手を伸ばせなかった領域に、静かに、そして確かに、光を当てることができた。『二人キリ』は、間違いなく、先生の最高傑作のひとつだと思います。